古くから稲作農業を発達してきた湖北地方における田用水の確保は、住民の生業がかかる基幹をなしていた。主たる水源を余呉川、高時川の表流水に求め、河川が山間部から沖積平野に展開する地点に井堰・取水口・水路が設けられ、平野部の隅々まで開発が進められていた。特に夏期の干魃季に稲が枯死するか否かの瀬戸際は、農民にとっての水はまさに血の一滴に値し、しかも隣接集落間の利害関係が相反する問題だけに複雑な伝統や慣行が生まれ、これを四半世紀にわたって受けつがれてきた。余呉川水系における黒田部落等による余呉湖の「湖尻さらえ」の伝統、高時川井明神付近に伝わる「井落とし」や姉川の水争いなどがつい半世紀足らずの先年まで実施されていた。